歴史と人物 戦国のムラ 城井谷

館と山城

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山城ってなあ~に?

城といえば姫路城や熊本城など白亜の天守閣を思い浮かべますが、これらは江戸時代の完成された城の形態で、城主の居住施設と政治施設が合体したものです。鎌倉時代はだいたい平地かゆるやかな丘の上のまわりを堀や土塁で方形に区画した館が武士の居住施設と軍事施設を兼ねていましたが、南北朝時代以降戦乱が激しくなると、館は麓などにあって、軍事施設が分離して険しい山頂に城が築かれるようになります。これが山城です。山城は常時使用するのではなく、戦乱の時だけに使用するものですから、防御と攻撃機能を最大限駆使したものです。出入り口を複雑にしたり(虎口)、敵が登れないように地面を急傾斜に加工したり(切岸)、また竪堀・横堀・土塁で侵入を防ぐなど様々な工夫がなされています。

宇都宮氏館跡(松丸)

江戸時代に書かれた『豊国紀行』や『城井谷絵図』では「城井取手屋敷跡」「城井鎮房の隠居の宅」と記述されています。ここは地名が立屋敷で、地元では館ノ内(タテンウチ)と呼ばれています。館跡は150m×120mの方形の台地上にあり、全国的にみても大規模な館跡です。発掘調査で幅7mの空堀跡や、土塁、また20棟以上の建物跡、柵列などが発見されました。

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城井ノ上城址(寒田)と三丁弓の岩

『城井谷絵図』には「城井盾籠所」と書かれ、自然の巨岩の表門と裏門があります。周囲を岩壁に囲まれた地形で、村人などが避難のため籠る場所と思われます。三丁弓の岩は独立状の巨岩で、ここの攻め手を防ぐのに三丁の弓をもって足りたことに由来すると言われています。

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大平城址(寒田)

本領安堵にこだわった鎮房は豊臣秀吉より伊予国転封を命ぜられたが、これに従わず、田川郡赤郷柿原に身を寄せましたが、天正15年(1587)10月2日、大村助右衛門から大平城(城井城)を奪還し、黒田氏に一揆をおこします。ここは越崎平といい本丸、二の丸、馬場を備えた宇都宮氏後期の山城で城台、石蔵、水の手などの地名が残っています。

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本庄城址・城井城(上本庄)

天徳寺の裏山一帯が本庄城址(城井城・若山城とも言われる)で、山頂から裾に延びる二本の尾根を堀切で切り、背後の山頂入口の尾根も堀切で断ち切っています。山頂の尾根は幅30m、長さ200mの平坦面が広がるのみです。明応10年(1501)大内氏と大友氏の戦いの時、城井直重ほか大友氏一派がここに立てこもりましたが、大内氏によって攻め落とされました。

小山田城址(小山田)

天正十五年(1587)10月、黒田長政は寒田に籠城した宇都宮鎮房を撃つため、ここ小山田城から約7km下流の広幡城を攻略し、岩丸に陣取り、城井谷を攻めました。一方、鎮房はここ櫟原の黒岩の谷を登り詰めた「城ヶ平」と呼ばれる小山田城周辺で民兵共々、奇襲をかけました。岩丸山合戦、峰合戦とも呼ばれる第一次城井谷攻めの戦いで、黒田側の大野小弁正重、勝間田彦六左衛門重晴を始め、数多くの兵が討ち取られ、今も供養碑や首塚として伝えられます。手痛い敗戦となった長政は馬ヶ岳城(行橋市)に退去しました。小山田城周辺には「馬ノ背峰」と呼ばれる険しい痩せ尾根や、鎮房が刀を洗った「千両沼」、鎮房の足形の岩など、数々の英雄伝説が伝えられ、いかに「岩丸山合戦」での城井軍の勝利が讃えられたかを物語ります。

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小川内城址(築上町本庄・みやこ町横瀬)

黒田氏が宇都宮鎮房を攻めるために築いた付城です。(萱切の内出崎の丸山の神楽城といい、吉川広家が築いたともいう)。第二次城井谷攻めで、長政はここに桐山弥兵衛、黒田宗兵衛、原弥左衛門の三将と兵350人をつけました。築上町とみやこ町にまたがる尾根筋にある全長200mにも及ぶ大規模な山城です。、三カ所の堀切や土塁などが良好に残っています。ここから寒田の大平城(城井城)を攻めたと思われ、『陰徳太平記』では、吉川広家が大平城の対岸に「猿尾の陣」を置いたとされています。

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堂山城址(伝法寺)

堂山は城井谷が最も狭まった要所で「一の戸」「遠見番所」と呼ばれ、山頂から周防灘まで一望できます。本丸、二の丸、堀切、土塁、土橋など良好に残り、平成10年の発掘調査で櫓跡と思われる建物の柱穴跡が発見されました。城主は宇都宮氏の被官伝法寺氏と思われ、冬綱の時代に伝法寺四郎左衛門、鎮房の時代に伝法寺兵部大輔の名があります。麓の正光寺周辺が館と思われます。

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釜倉城址(上香楽)

小山田と上香楽の境の山頂にあります。三重の空堀と土塁や長い防塁状の土橋を備えた山城で、中津方面(東方)からの攻撃に備えた山城です。麓の上香楽の集落から山城に登る長い馬場道が残っています。城井氏の重臣、塩田氏に関わる山城と思われます。

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赤幡城址(赤幡)

地名は切寄平。淵上寺の上部の痩せ尾根一体に広がる山城で、大型の空堀(写真)と土塁で約20m80mの長方形の区画を持っています。空堀内には土橋が2ケ所あります。『黒田家譜』によれば城井鎮房の出城で、家臣の壁兵庫と城井宮内を置き、これに対し黒田長政は母里太兵衛と小河伝右衛門を遣わして攻めました。

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広幡城址(水原・広末)

鎮房の家臣、ここ水原村の爪田讃岐守春永が城番で、天正15年(1587)黒田氏は広幡城を落とし、春永は城井谷攻めの道案内をしたと言われています。戦国末期の大規模な山城で、横堀と土塁で囲まれ、一部が張り出す構造から、黒田氏が改築したと考えられています。現在は城の中央をバイパス工事で削り取られ、副郭(二の丸)周辺が史跡公園となっています。

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野ノ仲城址(西八田)

ここには土居ノ内、矢倉下、木戸など地名が残っています。宇留津城の支城で城主は万田左近です。宇留津城落城の時に城を開けわたし落城しました。八田の若武将と竜神姫の恋の伝説があり、龍神社が祀られています。

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宇留津城址(宇留津)

天正14年(1586)豊臣秀吉の島津征伐先発隊は小倉城を攻略しました。28,000人の毛利・吉川・小早川の中国勢と長野氏等の現地軍が宇留津城を攻めました。『川角太閤記』によると宇留津城主加来与次郎は薩摩の野郎と呼ばれる悪党ら3,000人の兵で楯籠ったが落城しました。その妻子とも1,000人を浜で磔にしたと伝えられています。須佐神社周辺が城跡で堀跡の塩田沼も埋められてしまいました。

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