歴史と人物 戦国のムラ 城井谷

歴史を物語る

ふたつ城井谷絵図

「城井谷絵図」は黒田氏と宇都宮氏の城井谷での合戦跡を描いたものです。宇都宮氏滅亡後約100年後の元禄7年(1694)4月に福岡藩主三代、黒田光之から家譜編纂の命を受けた儒学者の貝原益軒は、豊前豊後の史跡調査を行いました。その時の見聞録が『豊国紀行』で、益軒は藩の絵師衣笠半助を同行させ、絵図を書かせました。益軒の一行は節丸(みやこ町)から松丸に入り、寒田を視察し、椎田で宿泊しました。絵図には城井ノ上城址、城井城(大平城)、館跡(松丸村の城井屋敷跡)、城井を攻めた黒田・毛利軍の拠点となった山跡(小川内城)などが描かれています。下の築上町所蔵の絵図は文政7年(1824)に書き写したものですが、絵師衣笠半助と貝原篤信(益軒)書の名があり貴重です。福岡県立図書館所蔵の絵図には奥書はありませんが、規模も大きく、気品のある絵と書体から原本の可能性もあります。

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城井谷絵図(築上町所蔵)77×40㎝(町指定文化財

城井谷絵図(築上町所蔵)77×40㎝(町指定文化財)

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城井谷絵図(福岡県立図書館所蔵)160×90㎝

城井谷絵図(福岡県立図書館所蔵)160×90㎝

城井鎮房書状(進家文書)

鎮房の数少ない文書のひとつで、みやこ町伊良原の旧家臣の進家に伝来した古文書です。天正15年7月、黒田孝高(官兵衛)が豊前に入国したが、10月頃まで上毛郡や下毛郡で宇都宮氏一族が蜂起し、黒田長政は城井谷を広幡城(岩丸谷)から攻めたが敗戦し、馬ヶ岳に戻ります。しかし10月下旬、長政は今度は城井谷を西から攻め小川内城を築いて攻めます。さらに秀吉は毛利、吉川、小早川まで出陣を要請し、戦いは追詰を向かえます。こうした状況の11月27日に鎮房が家臣に宛てた書状がこの書状です。

内容は、「(黒田勢の城井谷攻めに備えて)家臣たちには足弱(女性や子供や老人)ともども寒田に立て籠もり堪忍するよう申付けたのに、まだ籠城していないではないか。堪忍は明年にまで及ぶことは申すまでもない。内意ではあるが(家臣への命令ではない)、今月中に寒田に籠城しなければ私(鎮房)への反逆である。この書状を遣わすのでよく承知するように。」と、黒田勢の城井谷攻めに対して鎮房のあせりと切迫感がひしひしと伝わります。

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宇都宮氏を物語る軍記

城井鎮房が中津城で謀殺されて66年後の承応3年(1654)に家臣の渡辺左京亮義春が書いた『城井軍記実録』や、明暦4年(1658)に松田小吉の甥の池永教明が書いた『城井闘争記』など、江戸時代には宇都宮氏と黒田氏の軍記が多く書かれました。また貞享元年(1684)前後に始まった宇都宮氏復興運動の時、宇都宮春房(信隆・種房・左近)は旧家臣に『宇都宮家譜』を数多く書き与えました。

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『城井軍記実録』と『城井闘淨記』いずれも家臣の渡辺一族の家に伝わる。

豊前宇都宮氏の初代信房肖像画

この肖像画は元禄7年(1694)に宇都宮家後裔が京都東山の泉涌寺に寄進したものです。信房は鎌倉時代に律師俊芿に帰依し出家し、俊芿のために京都東山に土地を寄進し、泉涌寺に大伽藍を建立したと言われる。

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豊前宇都宮氏の初代信房

豊前宇都宮氏の初代信房


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