中津街道 椎田宿
ロゴマークについて
中津街道椎田宿は、海に開けた宿場町として発展したことから、「海辺の松並木の街道景観」をイメージし、遠浅の周防灘の白いさざ波と、椎田の名物アサリとかつての松並木の松を組み合わせて表現しました。 貝原益軒、伊能忠敬、田能村竹田も訪れた椎田宿を歴史散歩!
中津街道と椎田
江戸時代、日本橋を起点に五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)が整備され、九州も長崎街道をはじめとする八つの街道と脇街道が整備されました。
そのうち小倉城下の常盤橋から中津城まで52kmの中津街道は細川氏・小笠原氏によって整備され、明治9年(1876)から昭和8年(1933)までは国道の一部となり、昭和13年に国道10号線が新設されるまで豊前地方の主要な道でした。
中津街道のちょうど中間地点に位置する椎田宿は香春道、英彦山道(秋月往来)へ向かう人馬継立を行う宿駅として、また築城郡の郡役所(郡屋)が置かれ、交通、政治経済の拠点として発展し、今も各地域に街並みなど当時の面影が残されています。
近年、「中津街道」と一般的に言われるようになりましたが、江戸時代は「中津往来」「中津口往還」「小倉往来」など行先地で記されました。
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築上町内の中津街道と脇街道
椎田宿の大きな特徴は海に面したその地勢です。室町時代に椎田湊と呼ばれ、城井川、小山田川、岩丸川、極楽寺川、真如寺川がそれぞれ合流しながら注ぐ河口の港湾都市として発展し、江戸時代には中津街道と脇街道が整備されると、その宿場として栄え、海上・陸上交通の要衝地として、多くの人が往来しました。
そして椎田宿の中心に築城郡の郡役所(郡屋)と大名や役人が泊まる御茶屋が、湊には御蔵所が設置され、郡内の年貢米は湊の蔵所から海路で小倉城下に運ばれ、また廻船業者によって米や酒、様々な産物など、大阪方面との交易も盛んでした。
椎田宿には宇佐神宮に派遣する勅使(天皇の使い)や小倉藩主、武士や商人、文人や文学者、旅や交易で多くの人が訪れました。小倉藩主の細川忠興は鷹狩りで頻繁に椎田を訪れ、貝原益軒は史跡調査の旅で宿泊し、伊能忠敬は日本地図の測量で訪れ、俳人の各務支考(かがみしこう)は「昼がほよ 今宵はここに はまの宮」の句を詠み、田能村竹田は旧友と椎田駅で会うなど記録が残っています。