戦争遺跡と慰霊碑
戦争遺跡
アメリカ軍機の日本本土爆撃が始まる頃には築城飛行場は標的となり、行橋市稲童には銀河などの大型戦闘機が上空から見えないように格納する掩体壕が数多く築かれました。また赤トンボ等の小型練習機は空襲を避けるため築上町内各所に分散して格納され、金富神社の森では戦闘機を隠し整備していました。
また飛行場の約3㎞南の広末・赤幡地区には司令部や兵舎、病舎が移設され、山裾にトンネルを掘り、弾薬倉庫や補給倉庫、通信施設が造られました。各集落には防空壕が数多く掘られ、空襲時に避難しました。
弾薬倉庫壕(広末)
幅3m高さ2m、総延長1kmもある長大な壕で、爆薬や機銃弾が格納されました。
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通信施設壕(赤幡)
発電機や電話機などが設置されました。現在はコンクリートブロックで塞がれています。
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食料や衣類などの補給倉庫壕(赤幡)
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防空壕(築城:大野神社)
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防空壕(葛城小学校の裏山)
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奉安殿と奉安庫
天皇・皇后の写真と教育勅語が納められ、戦前はすべての学校にあり、教員と生徒は最敬礼をしました。戦後にGHQの命令により撤去解体されましたが、築上町では西八田、安武、本庄の3か所に現存し、椎田小学校の奉安庫は昭和3年(1928)のもので、講堂に置かれました。
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八紘一宇の碑(赤幡)
昭和15年(1940)に赤幡神社に建立されました。八紘一宇は世界を一つの家にするという意味があり、日本の海外侵略を正当化するスローガンにされました。
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慰霊碑
現在の重箱池(西八田)
築城飛行場近くの重箱池(横井塚池)周辺に避難していた37人の航空隊操縦学生が機銃掃射により死亡しました。
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無名勇士之墓と高塚出身戦没者の墓(高塚)
昭和20年(1945)8月7日、8日の空襲で亡くなった遺体は空襲警報が鳴る中、寺渡橋下の河川敷で火葬され、兵士の遺骨の一部は航空隊が持ち帰りましたが、大半は河川敷に放置され、高塚の人たちが拾い集め、墓地に埋葬しました。昭和42年に無名勇士之墓碑が建立されました。
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太平洋戦争戦死者慰霊碑(上城井小学校校庭)
昭和20年8月7日、上城井小学校が機銃掃射で攻撃され、教員と児童4名が死亡しました。
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