記憶と記録
戦時中のくらし
日本は昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦で敗北以降、戦況が悪化し、アメリカ軍機空襲と本土上陸に備え、防火訓練や竹槍訓練が行われるようになりました。また兵員不足を補うため、臨時召集令状(赤紙)により多くの民間人が戦地へ送られ、街中では出征兵士に弾丸除けのお守りとして贈る千人針縫が行われ、兵器製造のため寺の釣鐘や仏具等あらゆる金属製品が供出されました。
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兵士に送った千人針の腹巻
(虎は千里行って千里を帰るという言い伝えから虎の図案が用いられました。) -
椎田駅から戦地へ出征する兵士と見送る人々
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椎田駅から戦地へ出征する兵士と見送る人々
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兵士の帰還を迎える門(伝法寺)
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空襲に備えた防火訓練(椎田駅前)
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梵鐘の供出(水原の長寿寺・昭和17年)
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戦地への慰問袋を作る椎田高等実業女学校生徒
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勤労奉仕(今津)
築城飛行場周辺の空襲
昭和20年(1945)3月18日と7月25日は稲童掩体壕(行橋市)周辺が激しい空襲被害を受けました。この爆撃は飛行場周辺に隠した戦闘機や施設の壊滅を目的としたもので、アメリカ国立公文書館に7月25日の生々しい空爆映像が残されています。3月18日の空襲時、10歳だった亀田精一氏(築上町西八田)は薄曇りの中、飛行場格納庫周辺が激しい機銃掃射を受けたと証言します。
飛行場周辺の空襲被害と負傷者の治療にあたった医師たち
築上町安武の医師、片山愛而氏は昭和20年8月7日の空襲の被害状況を日記に記しています。
「空襲は午前10時頃始まり、突然のことで防空壕に入る時間もなかった。空襲は昼過ぎまで断続的に続いた。…西から東に向けて急降下する飛行機3機の機影が見えた。赤幡の辺りだろうか。…(安武の医院で)負傷者の治療にあたっていると、航空隊から救援要請があり、負傷者30人以上を海軍少尉(軍医)と二人で治療に当たり夕方までかかった。」
また椎田の医師、上田哲二氏の手記によると、広末地区に基地衛生隊の病舎があり、避難できない重傷者は横穴壕に収容され、山際の仮設医務室へ順次運ばれました。上田医師ほか地域の開業医に応援要請があり、看護学生だった竹口久枝氏は湊地区集会所で重傷者の看護にあたりました。(『築城基地開設50年史』1993年より)